月とおにぎり
※この記事はAIが生成したものです。
目次
BGM
油の匂いとともに生きていた日々
昔話のように語るなら、あれはもう、ずいぶん昔のことになる。
私があるテナントビルの最上階でステーキハウスのエプロンを身に着け、油の匂いと共に生きていた頃の話だ。
朝、出勤して制服に袖を通す。白かったシャツは、数ヶ月もすればうっすらとベージュがかった色味に変わる。
鉄板の上ではステーキがジュウジュウと音を立て、煙が天井まで届く。
油の粒が舞い、それが光を反射してキラキラと浮かんで見えた。
それを見ていると、まるで自分もその油の中に溶けていくような気がした。
一日が終わるころには、髪の毛も指先も、すっかりステーキの香りに染まっていた。
両替に行く小さな冒険
そんな日々の中で、たまに両替を頼まれることがあった。
あるテナントビルの中には、両替ができるサービスカウンターがある。
そこへ行くには、フロアをいくつか抜け、アパレルブランドのショップが並ぶ通りを通らなければならない。
それが、私にとって小さな冒険のようだった。
通路に立つマネキンたちは、無言のまま私を見下ろしていた。
その横を通るたび、私は少し背筋を伸ばした。
けれど、鏡の反射に映る自分を見ると、やっぱり「場違い」な感じがした。
黒ずんだエプロン、白衣の袖口についた油染み、滑り止めのついた靴。
それらは、つややかなディスプレイの前ではまるで異国の衣装のように見えた。
すれ違う世界の人たち
通りすがりに、アパレルショップの店員たちとすれ違う。
彼女たちは、みんなモデルのように背が高く、髪も艶やかで、
笑顔の角度までもが「完璧」に計算されているように見えた。
それなのに、私とすれ違っても、一瞥すらしない。
まるで、空気のようにすり抜けていく。
「お疲れさまです」と心の中でつぶやいても、声にはならなかった。
彼女たちの視界には、油まみれのステーキハウス店員など映っていなかった。
見えているのは、ブランドロゴの位置とお客の笑顔、商品の配置だけ。
そこに、私の存在が入り込む余地はなかった。
だけど、それが彼女たちの「仕事」なのだ。
頭ではわかっていた。
接客の笑顔は、舞台の照明のようなもの。
客の前で輝く一瞬のために、スイッチを入れる。
舞台裏に戻れば、無表情になるのも当然だ。
それでも、その切り替えの速さに、どこか恐ろしさを感じてしまった。
おにぎりとフラミンゴ
両替の袋を抱えながら、そんなことを考えていた。
エレベーターを降りて、厨房へ戻る途中、鏡に映る自分をまた見た。
丸い顔。くたびれた制服。
自嘲気味に笑って、「おにぎりみたいだな」と思った。
もしここに彼女たちがいたら、きっと「かわいい」とでも言うのだろう。
でもその言葉が本心でないことも、もう知っていた。
おにぎりとフラミンゴ。
そんなふうに並べたら、どちらが主役になるのだろう。
派手な羽根を持つフラミンゴの隣で、おにぎりはひっそりと俯く。
けれど、腹が減ったとき、人が本当に手を伸ばすのはどちらだろう。
そんな意地の悪い考えが、ふと浮かんで、少しだけ救われる。
月とおにぎりの夜
日が暮れると、ガラスの外の街は光で満たされる。
あるテナントビルのフロアにも、反射する照明が床に広がり、まるで湖面のようだった。
その光を踏みながら、私は再びステーキハウスへ戻っていく。
エレベーターの鏡には、いつも通りの自分が映っていた。
疲れた顔。けれど、どこか誇らしい。
なぜなら、私はその日も働いて、ちゃんと「生活」をしていたからだ。
厨房に戻ると、同僚たちの笑い声が聞こえた。
油の匂い、鉄板の音、皿のぶつかる小気味よい音。
その中にいると、なぜだか安心した。
たとえ世界が私を無視しても、この狭い厨房の中だけは、確かに居場所があった。
フロアの端には窓があり、夜になると街の光が遠くまで見渡せた。
ふと見上げると、夜空に月が出ていた。
その月を見て、私は思った。
あのアパレルの人たちはフラミンゴのように美しく、
私は地味で丸いおにぎりのようだけれど、
どちらも同じ光の下で働いているのだと。
月とおにぎり。
似ても似つかない二つだけど、どちらも丸く、どちらも自分の輝きを持っている。
月は夜空を照らし、おにぎりは空腹を満たす。
どちらも、誰かのために光っている。
そう考えると、少しだけ胸があたたかくなった。
あの頃という記憶の断片
あの日々から、もうずいぶん経った。
今でもあるテナントビルの前を通ると、あの頃の油の匂いが鼻の奥によみがえる。
あのステーキの煙、すれ違った無表情な横顔、
そして両替のために歩いたあの長い通路。
すべてが、まるで夢の断片のようだ。
けれど、夢であっても確かにそこに私は生きていた。
月の光に照らされながら、油にまみれたおにぎりとして。
誰の視界にも入らなかったけれど、確かに私はそこにいた。
それが、昔話の中のほんの一節。
あるテナントビルの最上階で働いていた、ひとりの小さな記憶の物語だ。